


一之宮西自治会 屋台巡行 概要
一之宮の屋台巡行

宮入
寄稿者:廣田一夫氏
平成20年2月作成
一之宮屋台巡行について
一之宮の屋台巡行は、明治時代から平成の現在に至る100年有余の間、一之宮八幡大神例大祭の宵宮の神賑行事として、脈々と継承されています。
又、この屋台巡行は、昭和51年、「一之宮八幡大神屋台神賑行事」として、寒川町指定重要文化財(第3号)」に認定されています。
ここでは、屋台の建造、構造、巡行などの概要について紹介します。
1 屋台の基数・所有及び保管
(1)基数・所有
一之宮の屋台は、宿·東町、西町及び北町 (以下、「3町」という。) の3基であります。
これらの屋台は、各町内の所有(財産)であります。屋台巡行が、「一之宮八幡大神屋台神賑行事」といわれていることから、屋台は、一之宮八幡大神(以下、「八幡大神」という。) の所有と勘違されやすいのですが、3町の財産であります。
屋台巡行は、一之宮の民俗文化であります。「一之宮八幡大神屋台神賑行事」の名称は、屋台巡行を八幡大神例大祭の宵宮の祭事として、3町が奉納することから命名されています
(2)屋台の保管
昔は、町内ごとに保管していましたが、昭和45年以降、八幡大神の境内に設置された「屋台保存殿」(耐火構造) に一括して保管されています。

2 組織
屋台の巡行、保守·管理などに直接、関る組織は、「年番」、「一之宮八幡大神屋台神賑行事保存会」及び「屋台はやし保存会」であります。
これらの組織の概要は、次のとおりであります。
(1)年番
年番は、昔からの制度で、3町内ごとに選任されます。屋台巡行の斎行の可否、巡行に係わる組織の設定、巡行など、屋台巡行を総括します。
*:年番制度
「各町内の氏神様(宿⇒金毘羅宮、東町⇒稲荷社 西町⇒天満宮、北町⇒第六天神社)の祭事を、町内の住民が1年交代の輪番で司る制度。因みに、主要祭事は、氏神様の例祭、屋台巡行、ドンド焼きなどであります。」
(2)一之宮八幡大神屋台神賑行事保存会
一之宮八幡大神屋台神賑行事保存会は、昭和4 7年に創立されました。3町の代表者、年番長、屋台はやし保存会長などで構成され、屋台保存殿、及び屋台の維持·管理を主業務としています。
(3)屋台はやし保存会
屋台はやし保存会は、昭和50年に創立されました。文字どおり、屋台巡行を盛り上げるお囃子(太鼓の演奏)を奏でます。
又、屋台はやし保存会は、お囃子を後世に確実に伝承するため、設立以来、2-3年ごとに希望者を募集し(小学生2年生以上)講習会を実施しています。平成20年現在、12期生の講習 (毎週木曜日) を実施しています。
3 屋台の建造
3基の屋台は、明治初期に建造されたとの言い伝えがありますが、建造時期を示す文書は存在していません。又、同時期に建造されたのではなく、最初に北町の屋台が存在し、その後、宿·東町と西町の屋台が建造され、西町の屋台は、明治32年に作成されたとの説があります。
屋台の製作者も、不詳であります。3基のうち、宿·東町と西町の屋台は、半原大工(愛川町半原)の造りの可能性が高いとの説がありますが、確証はありません。このうち、西町の屋台に類する絵図面(下図)が半原大工矢内匠家に保管されているようです。
(この項、「寒川郷一之宮地域屋台と矢内匠家譜」から)

4 屋台の構造
均整の取れた枠構造は、堂宮形式唐破風欅造に、貴台下部枠組みは、一間十尺に、輪切四車(源氏車)は、前部舞踊台と縁先は囃子処であり、間仕切りを配し、裏は楽屋で左右に脇障子が付けられている。(この項、「寒川郷一之宮地域屋台と矢内匠家譜」から)屋台の大きさ (サイズ)は、同一ではありませんが、概ね、高さ4· 2m、長さ(奥行き) 3, 9m、幅3. 3m、で、自重は、約1, 5トン程度であると言われています。
5 装飾
一之宮の屋台装飾の特徴は、提灯と彫刻にあります。
(1)提灯
屋台の全周に提灯が配備(丸型9号、約50個) されているのをはじめ、前面には、各町を表す吊るし提灯などが装飾されています。
これらの提灯は、真夏の夜の祭事を幻想的に彩る、屋台巡行には欠かすことのできない装飾であります。
(2)彫刻
屋台全体に唐伝説の彫刻装飾が施されています。資材は全て欅で、その優雅さが特徴であります。

屋台彫刻
6 屋台はやし·木遣
屋台巡行に付帯する屋台はやしと木遣が、祭りの雰囲気を盛り上げます。
(1) 屋台はやし
一之宮の屋台はやしは、平塚市の田村囃子を伝承したものだとされています。現在も、田村囃子と交流が継続されています。
屋台はやしは、大太鼓、小太鼓、笛そして鉦から構成されています。昔は、屋台の楽屋(屋台の後部)で、大人が酒を飲みながら演奏していましたが、昭和50年に「屋台はやし保存会」が設立された以降は、屋台前部の舞踊台で、お子たちの演奏に変遷しています。

(2) 木遣
いなせな木遣が、屋台巡行を引き締めます。屋台の引き出し時、「宝船」を、その後は「鎌倉」歌い上げます。

7 操作
屋台には、ハンドルもブレーキも装備されていません。屋台は、直進しかできません。
進行方向を変える方法は2つあります。そのうち、進行方向を少し変えるときは、屋台の前貴台(前面の梁)の下側にテコ棒を挿入して、屋台の前部を持ち上げて向きを変えます。この操作を行うのに、5名程度の人力を必要とします。
屋台の向きを、90度、以上変えるときは、「チャンギリ」という手法を採ります。
この方法は、中貴台(屋台中央部の梁)中心(屋台の重心点)に架台(チャンギリ台)を挿入して、屋台全体を地上から10センチ程度、持ち上げて屋台を回転させます。
チャンギリ台を挿入するのには、WW台(屋台側面の梁)の下側にテコ棒を挿入して、屋台の片方を持ち上げます。この操作には、10名程度の人力を要します。「チャンギリ」は360度の方向転換が可能で、屋台操作の魅せ場であります。
屋台の走行は、テコ棒と人力で行います。進行速度は、時速5km (人間の歩行速度)、程度です。屋台を止めるのは、前貴台の上部からテコ棒を、前輪の車軸の下部に挿入してブレーキをかけます。
このように、一之宮の屋台は、原始的な操作であるが故に、お祭騒ぎの面白さがありま。
8 屋台巡行
前述しましたとおり、屋台巡行は、八幡大神例大祭の宵宮(8月第1土曜日の夜)祭事とし
奉納されます。
近年は、屋台の巡行路である「藤沢-伊勢原線」(旧大山街道)の交通量が増大したため午後7時より10時までの3時間、交通を規制して巡行しています。
屋台巡行は、下図に示すように、八幡大神に接する大山街道を、主体に催行されます。

屋台巡行路
宵宮の早朝4時、町内の住民が、八幡大神の境内に参集し、屋台保存殿から屋台を引き出します。そして、町内ごとに所定の場所に移動させます。その後、屋台の清掃、提灯の飾りつけなどを行い、巡行開始に備えます。

飾り付けをした屋台
宵闇が迫る午後7時ごろ、八幡大神の神官に屋台を清めていだだき、屋台巡行の安全を願って、御祓いを受けます。その後、屋台巡行を祝って「手古舞·休圍を奉納し、出発を待ちます。
午後7時30分、打上げ花火を合図に、威勢のよい掛け声とともに屋台を繰り出します。
若者が、テコ棒を操作し、お年寄りやお子達は、綱を引いて祭りに参加します。
屋台の上には、ユカタを着飾った幼児が、そして、屋台はやし保存会の子供たちが、お囃を奏でます。
前述しましたように、屋台には、ハンドルもブーキも装備されていません。原始的であるが故に、操作の面白さがあります。圧巻なのは「チャンギリ」と呼ばれている方向転換の操作であります。中貴台に架台(チャンギリ台)を挿入して、屋台を浮かせて回転させるですが、かなりの力仕事であります。7~8人の若者が、テコ棒で屋台を引き上げようとすのですが、一回ではとても無理、気合を入れて2回、3回、汗だくになって、やっと成。これぞ、祭の原点。汗まみれになった若者の顔が清々しい。
やがて、3町の屋台は、松戸橋の交差点に集結し、神賑行事は佳境を迎えます。先ずは、屋台囃子の競演、子供たちが、他の町内に負けまいと、汗だくになって太鼓と格闘。
次に、獅子舞の奉納、演技が終わるや否や、ギャラリーの大歓声。
そして、木遣、保存会の面々が「エ~ 峰の小松にーなー」、朗々と鎌倉木遣を歌いあげると、ギャラリーから合いの手が。こうして、屋台は、松戸橋を後に、隊列を組んで八幡大神へ。無事に宮入し、真夏の夜の祭典は終焉します。

隊列を組んで八幡大神へ
[昔の屋台巡行]
昔の一之宮は、農村地域であり、屋台巡行に係わる交通規制もなかったことなどから、屋台巡行は、現在より派手に催行されていたようです。
『さむ川その昔を語る』(第1集 寒川郷土研究会)に、古老の話として、次のような記述があります。
『宵宮には、一晩中、屋台を引いて、四斗樽をあけて車に積んで、中には、ひしゃくを突っ込んでおいて、集まった人にどんどん振舞う。お酒の飲めない人にはハッカ水です。
平塚から芸者を呼んで、屋台の前で芸者の手おどり。町内別に屋台を送る場合、若い衆がおぶって、隣の屋台に越させたものです。
当時は、服装もそろいのはんてん、はらがけ、ももひき、ひらがけに、はらおぴまで、全部お揃いで作って、昔は、9月24日、25日に行われていました。(中略)昔は、もっと勇壮で各町内から出発した屋台が、松戸橋のところでぶつかり、お互いに先頭を取るため争いとなり、大変だったものです。テコ棒をわっぱ(車輪)の前に並べて動けないようにしておいて、喧嘩になったりしたものです。
昔は、交通規制などありませんでしたから、夜通し屋台を引き回し、宮入のときは、夜が明けてしまったものです。屋台の引きはじめには、若い衆が木遣を朗々と歌い上げ、お年寄りが、上げ鉢巻で、太鼓を叩いたものです。』